もっと日本を知りたくて

Want to know more about Japan

還暦過ぎのオジサンが自転車こいで日本一周する(だろう?)日記です。

Day37(20/June/2019) 猿払―宗谷岬―稚内

 久しぶりに清々しい天気だ。爽快な朝とはこんな朝なんだろうな。815出発。気温17度。風も殆ど吹いておらず快調に飛ばす。30分ほど走っていると、車がゆっくり近づいて来て、運転手が何か言っている。「頑張れよ!」という激励かと思ったら、「あなたXXの宿にいた人?」と聞く。「ハイそうですよ。」「これ忘れものだよ」とシャツを渡してくれた。宿の女将さんにはこれから宗谷岬に行くと言っていたので、こちら方面に向かう車に託してくれたようだ。有り難い! お礼の電話を入れました。

その電話をした場所がここ。宗谷岬の手前の丘を登り切った所。あまりにも壮観だったので、また風力発電の羽の写真を取ってしまった。数えると53基あった。

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そして950amに宗谷岬到着。北緯45度31分14秒。残念ながら樺太は見えなかった。

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そこには間宮林蔵の像もあった。伊能忠敬の弟子であった彼は1809年に樺太にわたり、樺太が島であり大陸との間に海峡がある事を発見した。それが間宮海峡

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その辺りをうろうろしていると、一人のサイクリストが話しかけてきた。韓国人のオジサンだった。千歳から北海道を一周しているらしい。以前は数か月かけて下関から四国、関西まで回った事があるとの事。まあまあ日本語もしゃべれる。年を聞いて驚いた!74だとの事。ぎゃー私はまだまだ未熟者だと思った。

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そして稚内稚内駅は、終着駅として根室と同じようなもんだが、なんと立派な事か。同じ敷地内に道の駅や映画コンプレックスもある。これからの地方は道の駅と役場などの公共施設を一緒にまとめて町の中心になるべきだろう。

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まだ宿のチェックインには時間があったので、去年の5月末にできたという樺太記念館に行って見る。そこでまた自分の無知を恥じるとともに、色々考えさせられた。

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まず樺太日露戦争後のポーツマス条約で北緯50度以南は日本領になった。まず日本政府が行ったのが、その当時の最新技術で50度の線を探り出し、その線を中心に10m幅、132kmの原生林を伐採し境界線を策定し、その途中にいくつかの国境標石を建てた。そのレプリカが下の写真。そこまでやったか明治人。

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しかし、ご存知のようにソ連は不可侵条約を無視して8月15日以降攻め込んできました。真岡(現ホルムスク)郵便局の電話交換手として勤めていた20前後の9人の女性たちは、宿直していた8月20日に真岡に攻め込んできたソ連軍に絶望して服毒自殺をするという悲劇がありました。彼女たちの最後の言葉が、「さようなら皆さん。これが最後です。さようなら。さようなら。」でした。なぜ9人の乙女たちが死ななければならなかったのか?

そして、今まで全く知らなかったのが「三船殉難事件」です。樺太ソ連が攻め込んで来て、そこに住んでいた日本人は逃げるように引揚船に乗らなければなりませんでした。樺太から小樽行きの3隻の船。8月22日留萌(るもい)沖でソ連の潜水艦が突如攻撃を始め、2隻が沈没、1隻が大破して留萌へ。その潜水艦は浮上して生きている人々に銃撃の雨を降らせました。1700名以上の犠牲者。なんとむごい。なんとひどい。これは事実です。どこかの国々のように歴史を捏造しているわけではありません。我々はこの事実を忘れてはいけません。https://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/4243

そして、ここにあの「昭和の大横綱大鵬」が関係してくるのです。大鵬は、ウクライナ人の父と日本人の母の間に樺太で生まれました。知らなかった!そして、1945年8月上記の一船に乗って母親と小樽に引揚げていました。母親のものすごくひどい船酔いのため二人は稚内で降りることにしたのです。そのおかげで生き延びることができ、昭和の大横綱になったのです。それ以来、大鵬稚内に特別な思いを持ち、何度もこの地を訪れたようです。

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気持ちが高ぶってしまいましたが、やはり樺太の事を語るのはここ稚内をおいて他にありません。色々考えさせられました。樺太行きの船が発着していた港の防波堤と桟橋までの乗り換え通路として使われていた防波堤ドームを最後に。

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移動距離:65km、通過トンネル:0

ルートラボ(Route Lab) Sarufutsu-Wakkani

https://latlonglab.yahoo.co.jp/route/watch?id=6216fcef0553b575c7e7adaaed33c0a3

 

Very fresh morning! Temp:17C. I left the Inn at 815am. After 30min ride, A car came closer and the driver was saying something. I thought he was cheering me. No, he brought my shirt which I left at the inn. I believe the madam of inn found and asked this driver  to hand over to me. Since there was no other option to go, it was easy to find me.

Again, I found a lot of wind power energy fans on the hill just before Cape Soya. I could count 53pcs.

At 950m, I arrived at Cape Soya where was the northernmost end in Japan. During spending the time there, I met one senior cyclist from Korea. He was also travelling in Hokkaido by bicycle. But I was surprised when I heard his age. He was 74 years. I am still baby!!!  

I arrived Wakkanai city, today’s destination. Wakkanai railway station is new and modern compared with Nemuro station (Day29). Both are the dead-end stations.

Since I had a time to check in, I visited “Wakkanai Karafuto (Sakhalin) Museum”. And I found a lot of facts during WWII which I had not know till now. Karafuto island locates 43km from Wakkanai. After the treaty of Porthsmouth in 1905, the southern part of Karafuto (Sakhalin) from latitude 50 became the territory of Japan. Japan created the clear border by cutting the trees of native forest for 132km, and a lot of Japanese moved to Karafuto.

However, after WWII, UUUR started to invade this area by ignoring the treaty. Therefore, all Japanese were obliged to move back to Japan.

On Aug22, 1945, the tragedy took place. 3 ships filled with many Japanese who were returning from Karafuto to Japan were attacked by USSR submarine. More than 1700 people died. All passengers were civilians and it happened after the ceasefire day (Aug15,1945). We, Japanese should not forget what happened.

At last, I put the breakwater dome which was the part of port for Karafuto ferry boats.

Today’s mileage:65km, tunnel passed:0